追憶 いきがいのまち

 病院で働いていると、多くの人々の人生の最期に立ち会います。多い時は1週間の間に何件もお看取りを経験することもあります。

 病院の中では、患者さんの一人一人の人生について、それほど深く知ることはできません。お見送りする患者さんが多いと、尚更、患者さんの人生をじっくり偲ぶことは難しくなります。

 先日、私が主治医を担当させてもらったことがある一人の女性ミツさん(仮名)さんが旅立たれました。

69年の一期でした。

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 ミツさんは重い病をいくつも抱え闘病されていました。心不全、気管支喘息、腎機能障害、そして血管炎。彼女は人工呼吸や血漿交換など、想像を絶する苦しい治療に耐え忍んできました。

 彼女は体がどんなに辛く、苦しい時にも、笑顔と前向きに生きる心を忘れませんでした。

 ミツさんの明るいお人柄を偲んで、ミツさんが通っていたデイサービス「いきがい」のスタッフや友人、家族が集まり、「ミツさんを偲ぶ会」が開かれ、私もその会に招いていただきました。

 ミツさんは太平洋戦争中に太平洋上に浮かぶ小さな島、ロタ島で産まれました。

 父母は農園を経営しており、比較的裕福な家庭であったようです。

 ところが、太平洋戦争の戦局が悪化し、日本が敗戦を迎えると、ミツさんは両親と共に島を追われ、両親の出身地である沖縄へ逃れてきました。さらに、沖縄の地上戦を経験し、逃げる途中に顔に銃弾を受け、右頬には大きな傷跡が残りました。

 ミツさん一家は日本に引き上げる際に、日本政府に財産のほとんどを没収されてしまいました。日本では一転して貧しい暮らしで、その日の食べるものにも困るくらいでした。

 また、引き上げ者は日本国内では差別の対象となったようで、ミツさんには理不尽な仕打ちやいじめを受けました。しかし、そんな中でもミツさんの心は折れることなく、いつも朗らかで前向きでした。

やがて結婚し4人の娘、1人の息子に恵まれました。

「子供を養うために、1年中、休みなく働いたさ。朝から晩まで。男の3倍は働いたさ」。ミツさんは昔を懐かしむように、語っておられました。

子供の服を買うために、無駄使いはせず、自分の服はいつもツギハギのボロボロでした。子供には良い服を着せてあげたいという気持ちから自分のオシャレはずっと我慢しておられました。

ミツさんの苦労は実を結び、子供たちは立派に成長し、それぞれ独立。たくさんの孫、ひ孫に恵まれました。孫たちにとっても、いつも明るく優しいミツさんは心の支えとなっていました。

 デイサービス「いきがい」への通所はミツさんの最後の1年間の人生を鮮やかに、そして豊かなものにしてくれました。

 ミツさんは「いきがい」で新たな「いきがい」を発見しました。デイサービス内にある駄菓子屋さんの店長になり、地域の子ども達と触れ合う楽しみができました。

また、歌が好きな彼女は合唱団を結成し、「いきがいのまち」「いきがいの種」をみんなで練習しました。歌を歌うこと=発声練習は喉の筋肉を鍛えるので誤嚥予防にもなります。

 それまでかすれた声だったミツさんは歌を練習することで、大きな声が出せるようになりました。大好きだったカラオケにも行き、2時間熱唱することもできるようになりました。

 亡くなる1年前くらいから、ミツさんの身体を次々に病魔が襲いました。具合が悪くなるたびに病院へ入院して必死に辛い治療に耐えておられました。

ミツさんが重い病になりながらも地域の中で明るく元気に生きておられる姿にメディアも注目し、テレビの密着取材を受けました。ミツさんは69歳でテレビにデビューし、その生き様は鮮烈な印象を与えました。

テレビの取材については、「いいわよ、どんどん撮って。ありのままの自分を見て欲しい。テレビに映ることで輝くことができるから」と喜んでおられました。

 しかし、実際には病は相当進行しており、血痰や息切れなどが強くなっていました。

 記者には「本当はとても痛くて苦しいのよ。でもこれは自分の問題だから、、周りには私が苦しんでいることを知られたくないの。だからいつも明るく、笑顔でいるの。その方がみんなハッピーでしょ」。記者は、明るいミツさんが、それほど病が重く、苦しんでおられることは想像もつかなかったらしく、大きな衝撃をうけました。

 孫の一人は看護師を目指し、看護学校の試験に挑戦していました。

ミツさんがお亡くなりになった時、傍にいた孫の一人は、息をしなくなったミツさんに向かってこう言いました

「おばあ、、起きて。お家にかえろうね。。」

ミツさんが肺炎で入院された時、私が主担当医となりました。

重い病気苦しむミツさんに

「どうか望みを持って、ミツさんらしく生きてください。また大好きないきがいデイサービスに行けるよう、一緒に頑張ってゆきましょう」とお声かけしました。

私は何気なくそう言いましたが、ミツさんは私の言葉をずっと憶えてくださっており、後日、ミツさんが退院したのち、施設職員のDAIGOさんから、

「先生、ミツさんが先生にどうしても会いたがっています。入院中に先生にかけてもらった言葉を支えにして頑張って来られたみたいです。少しの間で構いませんので、施設に会いにきていただけないでしょうか?」

私などが伺っていいなかな、、と思っていましたが、私もミツさんの元気な姿を見たくなり、仕事の合間をぬって施設へと出かける決意をしました。

施設に着くと、職員の方が出迎えてくださり、ミツさんの元へ案内してくださりました。私がミツさんにお声をかけると

「先生!?本当に先生なの?まあ、、嬉しい。私こんなに元気になりましたよ」

と満面の笑みを浮かべられました。

 実は彼女の病は完治しておらず、痛みや苦しみに耐える日々でした。その苦しみを全く私たちには見せずに満面の笑みで私たちを出迎えてくださいました。

 彼女を密着取材されている記者に「病気を持ちながらも笑顔でいられる秘訣を教えてください」と訊かれ、ミツさんは次のようにお答えになりました。

「私はここへ来て生まれ変わった。新しい夢が見つかりました。子供達や入居しているみんなを明るい気持ちにしたいのです。病気で辛いのは私個人の問題です。私が痛みを我慢すれば良いだけのことだから。私は周りの人たちを元気にしたいのです。だからいつも笑っているのです」

私は答えました。

「私の言葉がミツさんの支えになっていたなんて、これほど嬉しいことはありません。私も仕事で色々うまくいかないことがあり自信を無くしそうになりますが、ミツさんの笑顔を見ているとまた前に進む勇気が湧いてきます。私の方こそミツさんに支えられているのです」

最後にこぼれ話を一つだけ。

私がミツさんと再会を果たした施設で定期的に肺炎のレクチャーやミニコンサートを行っています。

もともとお歌が大好きなミツさんは私の演奏にも熱心に耳を傾けてくださいました。

ミツさんは「先生の演奏よかったなあ、、またヴァイオリンの演奏が聞きたいなあ、、葉加瀬太郎のコンサートに行きたい。生きているうちに行きたいなあ。」とおっしゃっていました。

それを聞いたミツさんの娘さんは葉加瀬太郎さんの事務所にお手紙を出したそうです。

「病気でコンサートを聴きに行くことはできませんが、葉加瀬さんのヴァイオリンリサイタルに行くことが母の夢なんです」と。

 すると手紙を書いて数週間後、葉加瀬太郎さんの事務所から小荷物が届き、そこには葉加瀬さんの直筆サイン色紙が入っていたのです。

 元気になってコンサートに行きたいというミツさんの思いを葉加瀬さんが汲み取ってくださったのではないでしょうか。ヴァイオリン弾きとしてとても嬉しく思いました。

 私は、ミツさんが団長を勤めていた合唱団の名曲「いきがいの種」を口ずさんでみました。皆をまとめながら、生き生きと歌うミツさんの姿を追憶しながら、、、

「やがていきがいの実がなったとき、自分のいきがいの種をみんなに分けることが出来るんだ。」

「いきがいのたねをみんなで探そう」

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