のぶ子さんとの思い出
戦中、戦後を強く、たくましく生き抜いた女性の物語です。(ご本人、ご家族に掲載の許可を得ております)
先日、1人の患者さんをお看取りさせていただきました。
のぶ子さん(仮名)は88歳女性、私が沖縄に来た7年前からずっと主治医を担当していた患者さんでした。
のぶ子さんは7年前にステージⅢAの肺がんと診断され、そこから分子標的薬などの化学療法(抗がん剤)を頑張ってつづけておられました。治療は奏功し、長い間安定した状態でお元気でしたが、1ヶ月ほど前から徐々に衰弱が進行し、ついに天に召されたのでした。
のぶ子さん生まれて間もなくの頃、沖縄は太平洋戦争の真っ只中でした。
のぶ子さん一家は戦禍を避け、沖縄本島北部、やんばるの地へ避難していました。
のぶ子さんの母親はのぶ子さんの他にお姉さん、弟、そして生まれたばかりの妹も連れていました。
やんばるの深い森の中で道に迷い、何日間も彷徨っているうちにのぶ子さんの妹は高熱にうなされるようになりました。マラリアにかかったのです。母親は歩けなくなった妹を背中に背負い、のぶ子さんと弟の手を引いて歩き、森の中の小さな山小屋で数日間をすごしました。
マラリアにかかった小さな妹は、お母さん、そしてのぶ子さん腕の中で静かに息を引き取りました。
戦後、成人したのぶ子さんはアメリカ軍関係の会社に就職し、経理の仕事につきました。
もともと、記憶力が非常に良かったのぶ子さんは会社の事務全般を任され、男性の何倍も働きました。休みは週に1回だけ。それでも自分で仕事をすることの喜びを噛み締めながら、兄弟姉妹を養うために懸命に働いたそうです。米国人と英語で言い争いになることもありましたが、頭脳明晰なのぶ子さんは米国軍人も論破してしまうほど、勝気でクリアな頭の持ち主でした。
本人いはく「カタコト英語とウチナーグチ(沖縄の方言)でたいがいのことはどうにかなったさ」だそうです。
完璧主義だったのぶ子さんは時として他人にも厳しく、時として兄妹ともぶつかることがありました。1人で自立した生活を望んでいたのぶ子さんは結婚されることはなく、子供もいませんでした。
のぶ子さんを育ててくれたお母さんは、のぶ子さんが一人で看病されていました。
7年前、私の外来に紹介された時、進行した肺がんが見つかりました。のぶ子さんはタバコは吸われませんでしたが、肺腺癌という、非喫煙者の女性に多いタイプのがんでした。
手術や根治的放射線治療+化学療法という選択肢もありましたが、80歳を超えたのぶ子さんはそれらを希望されませんでした。
「こうなったのも私の運命だから、、仕方ないと思います。治療で辛い思いをするよりは、残された時間を家でゆっくり過ごしたいです。」初診時の外来でのぶ子さんは全てを悟ったようにそうおっしゃいました。
のぶ子さんは非常に小柄で、若い時からの苦労で背中は曲がり、身長は130cm、体重は35kgほどでした。しかし、頭脳は明晰で、毎回の採血データの値はいつも暗記されておられました。
「のぶ子さん、今月のCEAは28でしたよ。先月とあまり変わっていないですね」
「先生、正確には少し上がっていますよ。私の先月のCEA(腫瘍マーカー)は26.1でしたから。」
このようなやり取りがいつも外来で行われました。
幸いにも、のぶ子さんの肺腺癌はEGFR遺伝子変異が陽性であったため、内服の抗がん剤である、イレッサ、タルセバ、タグリッソなどのお薬が使用可能でした。
7年前はまだタグリッソが発売になっていなかったので、イレッサの内服を開始したところ腫瘍は著明に縮小し、良好な経過を維持しました。
イレッサなどのTKIという飲み薬は重大な副作用として間質性肺炎、頻度の高い副作用として皮疹や下痢、肝機能異常などがあります。のぶ子さんの身体には薬の副作用でざ瘡(ニキビ)やアカ切れがたくさんできました。軟膏やテープ、時には抗菌薬も使用しながら必死で治療を続けました。のぶ子さんは外来に来るたびに
「私の身体はどうなっているのかね?・・もうすぐお迎えが近いのかね、、」と心配そうに私に話をされました。私は黙ってのぶ子さんの不安、苦しみを味わいました。
のぶ子さんが抗がん剤の内服を開始されてから、実に7年間もの間、一度も入院されることはなく、ずっと2週間に1回の診察を継続することができました。
毎回、診察が終わるたびに「先生、にふぇーでーびる(沖縄でありがとうの意味)」とニコッと笑っておっしゃってくださりました。調子が良い時は「にふぇーでーびる、ボディービル!」と高度なギャグも織り交ぜてくださり、診察室を和やかにしてくださいました。
おしゃべりで細やかな性格ののぶ子さんは、受付でも処方箋窓口でも、検査受付でも、歯科外来でも認知され、病院職員の人気者でした。内科外来のバイタル測定時ではSpO2(酸素飽和度)はルーチンでは測定されませんが、のぶ子さんだけは何故か、毎回SpO2まできちんと測定されていました。多分、外来担当の看護師と「前回は96%だったけど今日はどうかね、、」という会話を行なっていたことでしょう。
のぶ子さんの肺腺がんは抗がん剤の効果もあり非常にゆっくりなしんこうでしたが、今年に入ってからは胸水が貯留し、のぶ子さんの体力も徐々に落ちてゆきました。
お話も苦しそうにされることが多くなり
「私の身体、どこが悪いのかね、、もうすぐグソー(沖縄方言で「あの世」の意味)に行くのかね、、」とおっしゃることが多くなりました。
私はのぶ子さんが元気なうちから、残された時間をどのように過ごされたいか、もしもの時はどのような医療処置を希望されるかを繰り返し話し合っていました。もう3年、4年かけてなんどもお話しました。のぶ子さんの望まれる条件は
・体に負担のかかる無理な延命処置は行わないでほしい
・体が動かなくなったらできれば自宅で療養したい
そして最も強い希望は
・主治医(長野)に最後までみてもらいたい
ということでした。
このため私はのぶ子さんが外来通院されている頃から、訪問看護を前もって導入し、1人暮らしののぶ子さんの生活や家での様子を教えていただくようにしていました。
のぶ子さんの胸水は徐々に増加し、呼吸困難のため通院がむずかしくなりました。在宅酸素を導入し、お一人暮らしの自宅への訪問診療が始まりました。
のぶ子さんのご自宅は沖縄独特の古民家でした。古くて広いとは言えないお家ですが、一人で暮らすには十分なスペースです。おうちはいつも綺麗に清掃され、棚にはのぶ子さん手作りの日本人形や写真などが飾られていました。几帳面なのぶ子さんらしいなと思いました。
家の隣には弟夫婦が住んでおり、弟のお嫁さんが食事の差し入れや様子を毎日見に行っていました。
ご自宅ののぶ子さんの表情は病院の時よりも暗く、冴えない印象でした。
体力が落ちて自分の体が思うように動かないことに対する苛立ち、いままで全てのこと自分でやって来たのにそれができなくなったことに対する悔しさがあり、それが周囲の者への怒りとして表われてしまいました。
「なんで私がここに置いていたものを動かすのさ」
「私が買って来てといったものと違うじゃない」
のぶ子さんは心配してやってくるお嫁さんや兄弟にも厳しい言葉を浴びせてしまい、口喧嘩が増えていました。夜は不安になって弟や嫁に頻回に電話をかけ、家族は寝不足になり体調を崩してしまいました。
兄弟家族は口を揃えて
「私たちも高齢で、自分たちの生活もある。この人はとても几帳面で全て自分でやってきたから、私たちもずっと手出しできなかった。今さら面倒を見ろと言われても、それは難しいです。」
兄弟たちの態度をのぶ子さんも敏感に察知して
「私はこれまで人に頼らず、なんでも一人でやってきたのに、、なんでこんな身体になってしまったのか」
「みんな私のことを邪魔者扱いしているさ。。こんなんだったら、、早くあの世に行った方がましさ」
のぶ子さんが希望して開始した在宅療養でしたが、このままではみんなハッピーにはなれない、、皆そのことに気づいていました。
訪問看護、ケアマネも交えて会議を行い、一時的にデイサービス付きの施設に入居していただくことになり、私もそちらへ訪問診療を継続することでご了解いただきました。
のぶ子さん「長野先生、どんなことがあっても最後まで私のそばを離れないでくださいね。」
私は「必ずお約束します。どこで暮らしていてもずっと、私が一緒ですよ。」とお答えしました。
施設の管理者は偶然、私の友人のDAIGO(ダイゴ)さんでした。
突然のお願いにも関わらず、のぶ子さんの入居をOKしてくださいました。
施設のデイサービスなどで他の仲間とレクレーションを楽しまれたり、職員と会話するうちにのぶ子さんに失われていた笑顔が少しずつ戻ってゆきました。
家族も施設に入居したことで夜に電話で起こされることもなくなり、訪問診療も継続されることに安堵されたご様子でした。
のぶ子さんは記憶力がずば抜けていただけでなく、服装も非常にオシャレで、いつも身だしなみにはとても気を使っておられました。
外来通院時はとても綺麗な洋服をお召しになり、お化粧もバッチリでこられていました。
自宅療養になってからは好きな洋服を着たり、お化粧できなくなったことを悔しく感じておられました。
のぶ子さんはDAIGOさんに
「私はたくさんタンスに着物を大切に保管してるのさ。若い頃から着物を大切にしてきたから。もう一度、着て見たいね、、」
のぶ子さんの願いを聞いたDAIGOさんは、家族に頼んで、のぶ子さんのお家から、一番大切にされている着物を施設に持って来てもらいました。皆で着付けを行い、知り合いのメイクさんに頼んでお化粧をしてもらいました。そして生花の前で写真撮影を行ったのです。
萌黄色の着物を着たのぶ子さんは元気なころの笑顔を見せられ、本当に幸せそうでした。
人はたとえ、人生の終末を迎えたとしても、尊厳を保つことで、また笑顔を取り戻すことができる、また輝くことができる。そう確信した瞬間でした。写真に写ったのぶ子さんは、これまでの7年間で間違いなく、最高に輝いていらっしゃいました。
その後は、呼吸困難が徐に強くなり、ベッドに横になっている時間が多くなりました。
時々、うわ言のように
「はやく、はやく、、先生を呼んで、、早く私を迎えに来て」
とおっしゃられることが多くなりました。
のぶ子さんが入居された施設は、開設して間も無く、お看取りの経験がないスタッフもいらっしゃいました。夜間に不眠があり、訴えも多いため施設職員もご不安をかけてしまいました。
私がもう少し薬物療法を強化して苦しさをしっかり取れていたら、、と少し悔やまれる数日間でした。
訪問看護を始め、訪問薬剤師、施設看護師、介護職、ケアマネが力を合わせてのぶ子さんや施設スタッフを支えてくださりました。
また、当院の歯科衛生士も丁寧に口腔ケアを続けてくださり、のぶ子さんの口腔内は最後まで清潔に保たれ、乾燥もなく、カンジダが悪化することもありませんでした。
そして、私が朝起きて病院に行こうとしたその時、訪問看護師から連絡があり
「施設から、のぶ子さんの呼吸が止まったとの連絡が入りました。」
との知らせを受けました。
私は「のぶ子さん、もしかしたら私が病院に行く時間に合わせてくださったのかな、、最後の最後まで皆に迷惑をかけたくないと思っていたのか、、のぶ子さんらしいな」と思いました。
駆けつけた弟夫婦と共に、最後の診察を行いました。
のぶ子さんの愛用されていた腕時計をお借りして診察を行いました。
のぶ子さんは本当に穏やかな表情で眠っておられました。
のぶ子さんの手を握って「長い間、本当にお疲れ様でしたね。最期まで誇り高く、のぶ子さんらしく生き抜かれましたね」とお声をかけました。その時、
「先生、ニフェーデービル、ボディービル」とかすかに聞こえたようなきがしました。
ご家族が持参された沖縄の伝統医療である紅型(びんがた)に身を包み、いつもののぶ子さんらしくお化粧も整えていただくと、またお話されるのではないかと思うほどいつもののぶ子さんでした。私はのぶ子さんとの外来でのやり取り、沖縄に来てからの7年間を思い出していました。
沖縄の方言:うちなーぐち を一番教えてくださったのはのぶ子さんでした。
「先生、チビが痛いさ!え、チビって?チビはお尻のことさ。頭はチブルって言うんだよ、先生」
「のぶ子さん、今まで私に色々教えてくださってありがとうね。」
私は手にしていたヴァイオリンで沖縄の歌「芭蕉布」を演奏しました。
頭脳明晰だったのぶ子さんが喜んでもらえるよう、音を外さないように気をつけながら、、