母親の死
先日、私の母親が亡くなりました。65年の人生でした。
母親は由緒正しい一家の長女として生誕しました。4人兄弟の一番上ということもあり、大切に育てられたようです。大学を卒業後、24歳の時に38歳の父親と結婚し2人の子宝に恵まれました。
母親は結婚後、もっぱら専業主婦として父親の仕事を支えました。仕事で帰りの遅い父親に代わって、育児、家事に一切を母親が執り行ってきました。母親の存在は、父親、息子たちにとってなくてはならない存在でした。写真は私が1歳くらいの時の写真でしょうか。
母親は、私たち息子がどんな困難の中にあっても、世界中が敵になった時も常に私たちに援助の手を差し伸べてくれました。母親は私たちに間違いなく「無償の愛」を注いでくれました。これはお金で買えるものでもなく、目に見えるものでもありません。しかし、母親のおかげで私たちの心は、常に満ち足りたものになったのです。
小学校の時、私はこだわりが強く、わがままな子供でしたので、なかなか周囲の子達と打ち解けることができませんでした。私が、だれも遊んでくれる友達がおらず泣いていたのを見かねて、母親は近所の子供の家に一軒ずつ電話をかけて「、、ちゃん、今日、うちの子と遊んでもらえないかな?」とお願いして回っていました。子供心に、親にそこまでさせてしまって、情けないなあと思ったのを覚えています。
母親の趣味は日本舞踊でした。若い頃から先生に師事し、子供が成人した後には、もう一度、本格的な舞台に立つために稽古をし、相当難易度の高い演舞を披露していました。
6年前に病を得て、3回もの手術を乗り越えて、その度に元気に復活しました。病気になってからも父親とイタリア旅行に行ったり、山へハイキングへ行ったりと健常人と変わらぬ暮らしぶりでした。病気になってからも家事の全て、父親の医院の事務処理、患者への応対などほぼすべてのことをこなしていました。男たちは母親にあまりにも依存していました。周囲の誰もが、母親が病気であることを忘れて、今までのように彼女へ依存し続ける暮らしを続けていました。しかし、病魔は再び彼女を襲い、約1年間の闘病生活の末に、天に召されたのです。
母親は天真爛漫で、日本舞踊、歌、犬をこよなく愛しました。母親の遺してくれたもの。それは形では示すことのできない「無償の愛」というものでした。
母親に「これからの夢」について問いかけました。母親は「もう一度、元気になって、踊り(日本舞踊)のお稽古がしたいなあ、、」と言いました。母の日に合わせて、私は日本舞踊で用いる扇子をプレゼントしました。母親は震える手で扇子を手に取り、扇子を開きながら「扇子はね、華やかな色がついている扇の部分に目が行くけれども、、本当に大事なのは要(かなめ)の部分。要が弱いと扇子はバラバラになってしまうの、、」とご満悦そうでした。
母親が亡くなる直前に、普段、母親に言うことのできなかった感謝気持ちを枕元で伝えました。母親は目をつむって「私はもうこの世に未練はないです。ただ、お父さんと〇〇(弟)のことが心配やわ、、」と言いました。今まで自分が全て面倒を見てきた家族のことを最後まで思っていたのでしょう。
母親が亡くなる前日、私は学会のため東京へ出張の予定が入っていました。しかし、東京へ行く前になんとなく母親に会っておいたほうが良いと思い、休暇をいただいて母親の入院している奈良へ向かいました。東京へ移動する当日、私が病室へ行くと母親は苦しそうな表情を浮かべて「お願い、お腹をさすって、、」と私に言いました。私がしばらくお腹をさすっていると、「ありがとう、もういいです。あなたは東京へ行くんでしょ?遅れたらあかんから、もう行きなさい」と言いました。小学生の頃、家の玄関で毎日私を送り出してくれた母親の様子が目に浮かびました。母親と別れてから13時間後、彼女は永い眠りについたのです。
私が母親と対面したのはその翌日でした。私は在宅医学会でシンポジウムでの講演という重責を担っており、何とか気力て発表を終えて、再び奈良へ向かいました。母親の表情はとても穏やかで、まるで眠っているようでした。
通夜では多くの親族が集まり、母親の昔話などをされていました。私の小学校、中学校時代の同級生とその家族も弔問に訪れてくれました。母親は祖母の「あなたの息子のお友達はみんな、あなたの子供のように接してあげなさい」という言葉を忠実に守り、私の友人にも愛情を注いでいました。今、母親は好きだったアイルランド民謡「ダニー・ボーイ」を聴きながら、穏やかに眠っています。