津堅島での診療 ある男性を偲んで

仕事納めとなる12月28日は津堅島診療所での代診業務でした。

津堅島での代診業務は3度目、今年は9月以来2回目となります。

津堅島は沖縄本島から約5kmの沖合に位置する人口約400人の小さな島です。

主な産業は農業漁業。最高標高が40mに満たない平坦な島で、根菜類栽培に適した土壌であったことから、現在はニンジンの生産が盛んで、島の面積の1/3がニンジン畑となっておりキャロットアイランドの別名があります。ニンジンは甘みがあり高品質で、沖縄県内で生産するニンジンの2割は津堅島で収穫されているそうです。

津堅島の診療体制は診療所が一ヶ所で医師1人、看護師1人です。戦後、約70年間に渡って私の働いている中部病院から島で働く医師を派遣していました。ところが、離島へ派遣する医師の不足で今年度は常勤医がおらず、中部病院から医師が交代で診療に当たっています。

島でたった1人の看護師、Nさんは私の大切な音楽仲間で、3年前から一緒に演奏活動を行なっておりました。彼女はオーボエの名手で、いつも素敵な音色を聴かせてくれます。また看護師としても非常に優秀で、患者さんや介護施設のスタッフからも絶大な信頼を寄せられています。とても私より10歳も年下には見えないほどのしっかり者です。N看護師は患者さんだけでなく、すれ違う島民にも積極的に声かけを行い、彼らの健康を気遣っています。島民のオヤジギャグにも満面の笑みでツッコミを入れ、その切り返しは見事と言う他ありません。

N看護師は島民約400名の名前と顔、住んでいる場所まで把握しておられます。また、住民が飼っておられるペットについても知っておられます。

「あのおじさん、あんなブルドッグ飼っていたかしら?誰かが連れて来たのかな??」

今年度最後の診察日ということもあり、処方や予防接種の方なども来られたため、やや患者数は多めでした。

2週間ほど前から咳、喀痰と微熱がある高齢女性。以前からレントゲンで肺に陰影を指摘されていました。診療所でレントゲンを撮影すると、やはり左の下肺野に陰影があり、慢性的な気道感染症を疑う所見でした。私の得意な肺NTM症の可能性も考えられました。

私が、「中部病院へ行って精密検査を受けますか?私が紹介状を書きますよ?」と申し上げましたが女性は「病気の息子がいて島を離れることができません。私が島を出たらこの子はだれがみるの?先生、年末年始は対症療法でお願いいたします。」島で生きることの厳しさを目の当たりにし、私は女性の言う通りにする他ありませんでした。

津堅島は高齢化が進んでおり、島民のほとんどが65歳以上の高齢者です。多くの方は一人暮らしで、家族はいても本島か内地ですぐには駆けつけることは叶いません。津堅島ではこの10年間で約100名の方がお亡くなりになられ、島の人口は500人から400人へ減りました。一方、10年間の間に島で生まれた赤ちゃんはたったの1人だけ。島民のほとんどが高齢者で、限界集落と言わざるを得ません。それでも島の人々は海を愛し、自然を愛し、自由を愛しながら、穏やかに暮らしておられます。

午後の診察ではこの島最高齢の男性(101歳)の「通称KING」が登場しました。自力で歩行しながら診察室へ。どう見ても80歳くらいに見えます。「わしは100年間、ずっとこの島で暮らしてきたさ。この島の海と空と人が好きだからよ」カルテを開くと、5年前から肺腺がんの記載が、、しかしそんなことをKINGが気にするはずもなく、処方を受け取ると悠々と立ち去って行きました。

島の仕事納めの日であったため、診察終了後、N看護師に「折れない心を育てるいのちの授業」をお話させていただきました。エンドオブライフケア協会から頂いたスライドを使いながら、私の母親のエピソードも紹介しながら約70分かけてお話しました。

12月初旬は島の中で急変や搬送、島民の死亡が相次いで、N看護師はとても心が辛くなりました。N看護師は無力感と悲しみで涙が止まりませんでした。そんなNさんに、島の消防団の男性が優しく声をかけました。「あんたは精一杯がんばってるさ。わしらは本当にに感謝しているよ。あの方が逝ってしまったのは天命さ。あんたは十分立派に役目を果たしている、だから泣くなよ」と。N看護師はこの時、「自分はここにいていいんだ。この島にきて良かったんだ」と心から思うことができたそうです。

9月に診療に来た時にお話させていただいた、島民のCさんもお亡くなりになられました。

3ヶ月前には86歳とは思えないほどかくしゃくとしておられ、私に若い頃のお話を豪快にしてくださいました。しかし、脳出血であっという間の御臨終だったそうです。

  Cさんは台湾出身で、30代のころ、たまたま乗った船が津堅島へたどり着き(そんなことってあるの?)、この島へ上陸。その時の感動が今でも忘れられないと語ってくれました。

「私は台湾で生まれて、長い間、大阪で働いていた。それまで、海といえば黒くて濁っているものだと思っていたよ。この島に着いて、ビーチを歩いた。透明でエメラルドグリーンな色だった。足元には魚がいっぱい泳いでいて。ビーチにはだれもおらず、私と妻だけだった。この感動はいまでも忘れられないね。それから私は、この島に何度も通うようになり、気がついたらこの島に住んでいたんだよ。人生はどこに分岐点があるか分からないさ」

診療の休憩時間に私は津堅島の西に広がるビーチを一人で歩きました。

 50年前、Cさんが若い頃、この島のビーチを初めて歩いた時のことを想像しながら歩みを進めました。50年前と同様に、ビーチを歩いている人は誰一人もおらず、砂浜にはただ、風と波の音だけが聞こえるのみでした。とても静かな昼下がりでした。

この島では、時はゆっくりと流れ、この島の命もまた、ゆっくりと循環し、青い空へと昇ってゆきました。

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